テレビに耳ありラジオに目あり

テレビ/ラジオを自由気ままに楽しむためのレビュー・感想おもちゃ箱、あるいは思考遊戯場

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2018春ドラマ初回レビュー~『家政夫のミタゾノ』シーズン2~

Q3330101_m-compressor改

この『家政夫のミタゾノ』というドラマ、シーズン1がすこぶる面白かったので期待したが、ニッチな設定であるだけに、さすがに第2期となるとパワーダウンするのではという危惧もほんの少しだけあった。

しかしシーズン2の初回があまりにも完璧な滑り出しだったので、このレビューを書かずにはいられなかった。少しでもテレビドラマに期待感を持っている人には、手遅れにならないうちに観てほしいと思ったからだ。

いや別に、いろんな視聴手段がある昨今、いつ観ようと手遅れということはないのだが、こういう良質なドラマは正当にヒットしてもらわないと困るのである。良い作品がきちんと評価されなければ、やがて良い作品は生まれなくなる。できるだけリアルタイムで観ないと、作品の評価には繋がらないというのも事実であるわけで。

シーズン2初回は、言わずと知れた「家政婦モノ」のパロディとしての「家政夫モノ」であるにもかかわらず、なぜか壮大なロケット発射の場面から始まる。「なんだこれは?」と違和感を感じつつ観ていくと、やがてネジ工場の設定が出てきてようやくピンと来る。これはつまり、またしてもパロディなのだと。

このドラマの脚本家である八津弘幸は、TBS日曜劇場の大ヒットドラマ『半沢直樹』や『下町ロケット』の脚本を手がけた人だ。といってもそれらは池井戸潤の原作を下敷きにしていたわけだが、この『家政夫のミタゾノ』は彼のオリジナル脚本である。

となるとどうしても、「この人、原作つきじゃないと面白くないんじゃないの?」と疑いの目を向けられて当然の状況ではある。だがそこで八津弘幸は、むしろその疑念を逆手に取るように、『半沢直樹』や『下町ロケット』を思いっきり利用してみせた。もちろんロケット開発は『下町ロケット』のパロディであり、ネジ工場は『半沢直樹』で父親役の笑福亭鶴瓶がやっていたネジ工場を思わせる。

そもそもこのドラマの設定自体が『家政婦は見た!』のパロディであり、さらにはそのパロディである『家政婦のミタ』のパロディですらあるかもしれないのにもかかわらず、さらにその中に脚本家が手がけた作品のセルフパロディまでぶち込んでくるというこの蛮勇。

そしてそれら日曜劇場のパロディも、けっして今どきのアニメのような「パロディのためのパロディ」に終わるものではなく、すべてが有機的にストーリーへ絡んでくる。さらに『半沢直樹』や『下町ロケット』の感動ストーリーを完全にひっくり返して悪意剥き出しに描いたうえで、しかし単なる皮肉には終わらせず、ひねりにひねった上できっちり着地させるという離れ業を見せる。

走り方ひとつ取っても絵になる主人公・三田園薫のキャラクターの強烈さはもちろんのこと、この脚本レベルにおける遊び心は他の追随を許さぬほどに圧倒的で、むしろ「こんな才能の持ち主に原作をつけるなんてもったいない」とすら思わせる説得力に満ちている。インパクトだけでなく、完成度も非常に高い。

とりあえず今期のテレビドラマ全体を見渡しても、頭ひとつふたつ抜きんでている傑作である。毒性が強いため、深めの放送時間帯であることは納得できるが、それが作品の伝播力を弱めているとしたらもったいないとも思う。

だがこういう皮肉の利いた作品が万人向けでないのはわかった上で、しかしだからこそ方向性も毒性も関係なく、ただ良質であるという一点のみであえて万人に勧めたい一作。まずは一話目に脱帽と言うほかない。


スポンサーサイト

『M-1グランプリ2017』決勝感想~「二本勝負」という困難との戦い~

m-1グランプリ2017ロゴ

「二本勝負の難しさ」を改めて感じる今大会だった。一本目で勝負に出ないと、そもそも二本目に進めない。しかし一本目で勝負をかけると、二本目のインパクトが減じてしまう。ましてや二本目はベスト3が出揃う高次元の戦いになるから、ここで一本目より弱いネタを持ってきてしまうと、さらにその瑕疵が目立ってしまい致命傷になる。

だがそうなると、語るべきはその「インパクト」という謎の概念が、いったい何を指しているのかということだ。観る側にインパクトを与える要素としてはもちろん、ネタの設定、展開、キャラクター、ワードセンスなど、様々なファクターが存在する。

それら諸要素のうち、一本目と二本目で変えられるのがどこで、逆に変えられないのがどこなのか。また変えるべきはどこで、変えるべきでないのがどこかというのは、当然各コンビによって個々に判断が異なるわけで、そこにもまた個性が現れる。

さらに「変える」ということはつまり、何かを「捨てる」ということでもあるから難しい。たとえば一本目はキャラクターで勝負していたコンビが、二本目で展開重視のネタをやるとする。そうなれば単にプロットの展開に軸足を移したというだけでなく、自動的にキャラクターをアピールするために割く時間を減らさなければならないことになる。つまりキャラクターという長所を、ある程度捨てなければならなくなるということだ。

この「どこを使ってどこを捨てるか」という取捨選択の感覚は、特に厳しい時間制限のある『M-1』のような大会においては、とても重要になってくる。そこで必要になってくるのは、純粋な創作能力というよりは、むしろ「編集センス」ともいうべき能力かもしれない。むろん「どこを優先してどこを切り捨てるか」という編集センスも含めて、創作能力ということになるのだが。

以下、登場順に感想を。

【ゆにばーす】
男女コンビの人間関係にまつわる話という、まだ知られてないコンビだからこそ有効な、地に足のついた題材。
頭を洗っている場所が実はベランダであったり、風呂上がりに飲んでるものが実は化粧水であったりという、「ツッコミによってようやくそれがボケであったと判明するボケ」が特徴的。
行動と状況をコンスタントにズラしてくるのが上手く、ツッコミを待ってややアフター気味に笑いが来る。

『ゴッドタン』あたりで観た「ポスト三四郎」な印象に比べると、意外と正統派な印象を受けた。
今回のネタはボケのはらの方をフィーチャーするスタイルだったが、やはり川瀬名人のぶっ壊れた部分を観たい。

【カミナリ】
昨年の大会で「どつき漫才」のスタイルが有名になりすぎてしまったため、安定感もワードセンスも高いものの、このスタイル内ではもはやインパクトを出す余白が残されていないように感じられた。

ある意味、昨年のネタが実質「一本目」の役割を果たしてしまっているため、今年の一本目には二本目的な「一本目とは違うインパクト」が暗に求められていたというか。
そういう意味では、ハライチと同じ問題に突き当たっている印象。

【とろサーモン】
この日、もっとも自由な漫才を披露したのがとろサーモンだった。少なくともそう見えた。
その源泉は所々で顔を出すベテランならではの「アドリブ感」であり、ボケの久保田が終始醸しだしているアウトロー感でもあり。

自由であるというのは「特定の型を持たない」ということで、そもそも型がないため、最終決戦に残った三組のうち、彼らだけは二本目の方向性で迷う必要がなかったのではないか。何しろ型がなければ、型を変える必要もない。今日に関しては、その柔軟性がすなわち強さとなった。

たとえば二本目のネタ。当初の話題は「肩をぶつけてきたおじさんへの対処法」であり、そこを軸に話を進めていくのかと思いきや、かなり早い段階で焼き芋屋の話にあっさり変わる。

普通はこれだけ適当に軸を変えると観客はついていけないのだが、彼らはそもそも設定で勝負していないから、軸を変えてしまってもたいした被害はない。

では何が軸なのかといえばそれはやはり久保田の自堕落なキャラクターで、それされあれば他の要素がどう変わろうとクオリティに影響はない。

最終決戦に残った三組のうち、二本目のネタのクオリティが一本目に比べて落ちなかったのは彼らだけだった。
それでも個人的には和牛に軍配を上げるが、「キャラクターの力」と「自由度の高さ」という二要素の重要性を改めて痛感させられたという意味で、優勝に文句はない。

【スーパーマラドーナ(敗者復活枠)】
合コンという複数人の状況をボケの田中が単独で演じきるという、無謀なひとり芝居的状況を武智の安定したツッコミでコントロールしていく。

田中の(意図的な)空回り感はもはや唯一無二の領域で、その危なっかしさが最大の魅力だが、ここまで弾けて来ると、むしろそれに対するツッコミが安定しすぎているのがやや物足りない。
後半にむけてツッコミがボケに巻き込まれ、二人して壊れていくような展開も見てみたい。

【かまいたち】
テンポが良く、全方位的に仕上がっていてクオリティも高い。

だがなぜかあまり印象に残らなかった。
コントに比べると、というのもあるのかもしれない。

【マヂカルラブリー】
ひとりミュージカルを繰り広げるボケの野田クリスタルの動きの面白さ。

それはたしかにあるのだが、反面、動きに頼りすぎて言葉が追いついていない印象。
フレーズを強化することで、言葉と動きの掛け算の値は飛躍的に向上するのではないか。

【さや香】
ボケとツッコミというよりは、フリに対する過剰なリアクションボケで見せる形。

前半の「静」から後半の「動」への緩急がダイナミックで、尻上がりにテンションが上がっていくが、横への展開やねじれがないのがやや物足りない。

ただし独特の空気感があるので、個人的には気になっている存在。

【ミキ】
ベタなネタを、テンションとテンポでねじ伏せる。そこに「上手さ」を感じるか、中心となるネタの弱さが気になるか。

基本的にボケどころを示すスイッチが全部露出しているため、やや野暮ったく感じられるが、それが誰にでもとっつきやすい「わかりやすさ」にもなっているというジレンマ。

【和牛】
出順も含め、あらゆる要素が着々と「和牛シフト」を作り上げていくように見えた。
最近、彼らがかつてやっていたラジオ『和牛のおもしろ牧場』(KBS京都)にハマッていたこともあって、個人的には優勝してほしかったし、客観的に見ても優勝に値するクオリティであったと思う。

特に一本目で最高得点を叩き出したウエディングプランナーのネタは圧巻だった。むしろ一本目の素晴らしさが、二本目の足を引っ張ったと言ってもいい。

一本目は前半に張った伏線を後半ですべて回収するという二段構えの構造。さらに凄いのは、前半に張った伏線をそのまま順当に回収するのではなく、前半提示されながらも却下された「没案」の方をわざわざ回収しているという点。
つまり単なる二段構えではなく、そこにひねりまで加わっている。

審査員の小朝師匠も言っていたように、前半はボケの水田のみがボケるが、後半はツッコミの川西もボケはじめ、最終的には二人とも弾けて終わるという明確な展開がある。
当ブログではこれまでも、「展開」ということについて繰り返し書いてきたが、この「ツッコミの方が単なるツッコミで終わるか、ボケに参入するか」という選択肢は、『M-1』という大会における生命線であると個人的には考えている。

そして二本目で、彼らはまた違う展開を持ってくるのか、同じ展開で攻めてくるのか。ネタのクオリティは間違いないだけに、そこの選択が勝負の分かれ目になると思っていた。
結果的には一本目ほど展開重視ではないものの、やはり同じく後半に伏線回収のあるネタを持ってきた結果、やや縮小再生産的な印象になってしまったのは否めない。

旅館の女将役の川西が、一日目の反省を生かして二日目はすこぶる的確に顧客対応するという展開が後半に訪れるが、一本目に比べるとそこにひねりはなく素直な伏線回収になっており、ひとまわり小さい展開に見えてしまった。
一本目が没案を採用するという「逆接」的展開であったのに比べて、二本目はストレートな「順接」的展開というか。

とはいえ伏線の回収とは本来そういうものであって、一本目が画期的すぎたのだと思う。
しかし最終決戦に残った二本目だけを比較しても、個人的には和牛が一番面白かったと思っている。
ただ、優勝したとろサーモンは、二本目の方が一本目より面白かった。これもまた「展開」と言うべきか。

【ジャルジャル】
ただひたすらに珍妙なことを言い続けるという、ジャルジャルらしいミニマムでしつこいネタ。
徹底的に中身を排除するそのストイックな姿勢は、純文学的というか、「純お笑い」とでも言いたくなる。

音楽でいえばこれだけメロディのない歌を聴かせるのは凄いし、リフだけで押すそのシンプルなスタイルは洋楽的でもある。

ただし、飽きる。挑戦的だが、どこか閉じている。

一方で和牛の一本目は、挑戦的でかつ、開いている。この違いは大きい。

しかしジャルジャルの開拓者精神には、いつも注目している。とはいえ自ら切り拓いたスタイルが、時には自らの足枷となることもあるだろう。


《『M-1グランプリ2016』感想~改めて「漫才らしい漫才」というベタな評価軸を持ち出さねば測りきれぬほどの、まれに見る接戦~》
http://arsenal4.blog.fc2.com/blog-entry-332.html

《『M-1グランプリ2015』感想~「ネタ」と「キャラ」の融合が生み出すミラクル薄毛ファンタジー~》
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-301.html

《『M-1グランプリ2010』感想》
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20101226/1293372609

《観客の反応がすべてを支配しすぎ、だが結果は意外と順当 ~M-1グランプリ2009総評~》
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20091222/1261426486

《「スピードで誤魔化せる範囲は限られる」M-1グランプリ2008総評》
http://d.hatena.ne.jp/arsenal4/20081222/1229948554

アインシュタイン単独ライブ『ルミネシュタイン』~成功も失敗も笑いに変換する博士の永久機関~

20171009142647-6059992a6445ad4cbd53934c8d20178dbaf9b5e7.jpg

ラジオの面白い芸人を信頼している。それはエッセイの面白い小説家が信頼できるのに似ている。もちろんエッセイと小説は違うし、ラジオのフリートークと漫才やコントも別物だ。

その間には、「ノンフィクション」と「フィクション」という決定的な区別が存在する――というのは嘘で、その二者の間にはどっちつかずの、結構なグレーゾーンが広がっている。フィクション要素の大きいフリートークもあれば、ほとんど事実に基づいて書かれた小説もある。

たとえば近ごろ町田康の書く作品には、エッセイか小説か区別がつかず、どちらとも読める作品群がある。読者だけでなく帯や解説文を書く人さえ、あるいは作家本人でさえ、それをどちらと呼ぶか決めかねている様子が見える。いやむしろ、面白ければどっちでもいいじゃないかと。それでいいと思う。

ラジオというのは誤魔化しのきかないメディアだと思っている。そこで試されるのは、ただ「面白いことを面白く伝える」能力ではない。ラジオ番組の多くは、舞台のネタに比べると遙かに長尺で、テレビと比べても喋りの個人負担が圧倒的に多い。だからたとえば二時間の生放送を「面白いネタ」で埋め尽くすのは至難の業となる。そんな長い時間、次から次へと面白い出来事ばかりが起こるはずがない。

ゆえにそこで求められるのは、「つまらないことをも面白く伝えてしまう」魔法のような力だ。結果的に面白くなるのだから、「つまらない」という言いかたは語弊があるかもしれない。「取るに足らないこと」「どうでもいいこと」「完成度の低いもの」……つまり「話のネタとして弱いもの」ということになるが、そういった「そこらへんに転がっているもの」を面白くできなければ、ラジオは面白くならない。

だから僕がラジオの面白い芸人を信頼しているというのは、それによって、目の前で何が起きようとそれを笑いに変換してしまう芸人としての懐の深さが、自動的に証明されることになるからだ。

前置きがずいぶんと長くなったが、そういう場合は前置きこそが本論である。これは前置きではなく、アインシュタインというコンビの魅力の本質を、わりとストレートに伝えるつもりで書いている。

漫才六本とコント一本と幕間VTR、そして観客からの質問に答えるフリートーク。そんな単独然とした構成のライブから見えてきたものは、まさに前項の『アインシュタインのヒラメキラジオ』について書いたレビューで触れた二人の魅力を、ものの見事に証明してみせるものであった。

ボケが綺麗に決まったらもちろん面白いし、失敗したらしたでツッコミにより間違いなく笑いに変換される。成功も失敗も、どちらもコンスタントに笑いになるならば、それはもはや笑いの永久機関だろう。ラジオから感じていたブレイクの予感を、確信へと変えるライブであった。


【『アインシュタインのヒラメキラジオ』~追い込まれた先に煌めくヒラメキのプロセス~】
http://arsenal4.blog65.fc2.com/blog-entry-341.html

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。