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『日刊サイゾー』ラジオ批評連載コラム「逆にラジオ」第28回更新~『たまむすび』~

ラジオコラム第28回は、『たまむすび』スペシャルウィークに炸裂した井上陽水の喋りの面白さについて。

【『たまむすび』スペシャルウィークに降臨した井上陽水が紡ぎ出す、夏の終わりの白昼夢】
http://www.cyzo.com/2013/09/post_14399.html

そもそも井上陽水は食えない男だ。

かつてアンドレ・カンドレを名乗り、本人あまり元気そうに見えないのに「みなさんお元気ですか~」と国民に問いかけ、必死で探しものをしている人をなんの脈絡もなく踊りに誘い、ホテルが川沿いにあることを異様に重要視し、パンダを並べ、自殺する若者が増えていることよりも自分の傘がないことに絶望する。それが井上陽水である。一分の隙もなくコンスタントにねじれている。だがその根本的なねじれを表現するのが、まさにアートでありエンターテインメントである。本来ストレートなものを外部の手で表面的に無理矢理ねじったりこね上げたりするのは、アートでもエンターテインメントでもない。近ごろそういうまがい物が多い。

ラジオには、どういうわけかその人間の持つ根本的なねじれを浮かび上がらせる力があるらしい。対話の本質は互いの持つねじれ同士のぶつかり合いであり、ラジオはリスナーとパーソナリティー及びゲストそれぞれが抱えるねじれの対決である。この日の放送では、間違いなく井上陽水の強烈なねじれを中心に渦が生みだされていた。ねじれには、その場に渦を作り他人を巻き込む力がある。これはまさにアートやエンターテインメントの力でもある。

食えないねじれこそが面白い。食えない人間だけが面白いものを作るのは実のところ当たり前の話で、客がアーティストを食うのではなく、アーティストが客を食わなければ面白くはならない。受け手の想定内にある、つまりいつでも食えるアーティストなど面白くもなんともない。

ラジオはいつも、パーソナリティーが本質的に食えない人間であるかそうでないかを、つまりその人にアートやエンターテインメントをやる資格が本当にあるのかどうかを、容赦なく剥き出しにする。時には作品よりも如実に。



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