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『一九八三』/三四郎~毒猫的可愛気の炸裂~



《才能も知恵も努力も業績も忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるというだけの奴には叶わない》(谷沢永一『人間通』)

とにかく小宮の可愛気が炸裂している。笑いには何よりも可愛気が不可欠だということを、改めて痛感させられる三四郎初のDVD。11本の漫才が収録されている。

『アメトーーク!』や『ゴッドタン』で頭角を現した、常に「ひと言多い」小宮のツッコミは、漫才という枠組みの中でもいかんなく発揮されている。むしろ古典的な枠があるからこそ、そこに枠を破壊する楽しみを見出すように、伸び伸びと余計なひと言が放たれる。既存の枠組みをまったく無視するわけでも、その中に収まるのでもなく、枠組みをちゃっかり「利用」して、いやさらに「悪用」と言ってもいいほどまでにねじ曲げることによって、逆にその枠自体持っている可能性を改めて感じさせてくれる。

お笑いに限らず、映画にしろ漫画にしろ音楽にしろ文学にしろスポーツにしろ、あるジャンルに新しい才能が出現するときには毎度そのようなことが起こる。新しさとはすでにある枠組みを無視することだとする向きもあるが、そういう成功例はむしろ少なく、枠組みを十二分に理解したうえで、それをどう自分用に利用/悪用していくのかというパロディ精神こそが、ジャンルを次の段階へと切り拓いてゆく。

ところで、可愛気という得体の知れない魅力の本質とは何か? 小宮は生意気キャラとしてお馴染みであり、「毒猫」と呼ばれている。つまり可愛気とは、表面的には「憎たらしさ」のことなのかもしれない。そしてその「憎たらしさ」の本質とは、「余計なことを言う」「言わなくてもいいことを言う」という過剰性である。

ここで言う「余計なこと」とはしかし、「どうでもいいこと」などでは全然なく、「真実」のことである。たとえば太っている人に「デブ」と言うことは明らかに「余計なこと」だが、間違いなく「真実」でもあるというように。つまり可愛気のある人間のみが、真実を言うことを許される。笑いというのは、欺瞞だらけの世の中の陰に隠れている真実を暴き出すことによって生まれるものだから、芸人にとって可愛気とはA級ライセンスのような免罪符のようなものであり、言うことのできる真実の幅を、結果それによって生まれる笑いの幅を、大きく広げてくれるものでもある。

とはいえ、可愛気のある人間だから真実を言えるのか、真実を言う人だから可愛気があると思われるのか、そこんところの「鶏が先か卵が先か」的順序は不明だが、同じことを言っても、ある人は許されるどころか笑いまで生み出し、ある人は笑えないどころか糾弾までされるというのは間違いのない事実である。可愛気のあるなしで、発言の評価が180度変わることも珍しくない。

冒頭の引用文は、むろんこの可愛気という価値観を強調するために掲げた。なので多少オーバーな感触もあって、やはりただ可愛気だけあればいいというわけでもないと、個人的には思う。

たとえば漫才の場合であれば、やはり言葉選びのセンスというのは非常に重要で、三四郎の場合は言語感覚に独特な、ある種文学的な角度がある。たとえば、「モテたい」というネタの中で小宮の口から繰り出される、「はびこれ~オレを好きな人たち~!」というフレーズに感じる、絶妙な違和感。言いそうで言わないのに言いたくなる言葉の並び。「こういう言い方をされたらなんか許せてしまう」というこの言葉選びの才こそが、小宮の可愛気を生み出しているとも言える。

小宮のことばかり書いたが相方の相田の、拾うべきところは拾い、流すべきところは流す取捨選択のセンスが三四郎漫才の屋台骨を支えている、ということにも改めて気づかされた、ということを付け加えておく。「付け足しかよ!」と言われることを想定しつつ。

来週からは『三四郎のオールナイトニッポン0』(3/31火曜27:00~)が始まる。以前の単発放送を聴いた限りでは、すでにリスナー対小宮の丁々発止のやりとりが出来上がりつつあり、彼らがラジオという枠組みをどう「悪用」して次なる段階へ運んでくれるのかと、勝手に期待する自由。

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