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『真田丸』第3・4回感想

大河ドラマ『真田丸』

『真田丸』序盤の主役は、早くも毎度その「表裏比興」っぷりを炸裂させている真田「昌幸」だが、もうひとり注目すべきは、物語全体における主役「幸村=信繁」はさておき、やはり真田昌幸・信繁父子にとって生涯のライバルとなる徳川家康だろう。

徳川家康といえば、どうしても陰湿で世知に長けた「古狸」のイメージがつきまとう。事実、彼が信長・秀吉の世を経たのち、満を持して天下を手に入れるため、その晩年にじわじわと張り巡らせた執拗な根回し工作から逆算すると、どうしても家康を爽快感あふれるキャラクターに設定することは難しい。

しかしその歴史的言動が爽やかさに欠けるからといって、その人物が必ずしも「絶対悪」であるとは限らない。重要なのは、その陰湿さがどこから発生しているのかということで、今回この『真田丸』で描かれる家康の根底には、どうやら生来の「臆病さ」が横たわっている。三谷脚本は、家康が様々な事態に際して、まずはいちいち「怯える」様子をあえて強調してみせる。この「臆病さ」はしかし、徳川家康というキャラクターにとって大いなる「救い」だ。

なぜネガティヴな要素である「臆病さ」が「救い」なのか。それは「強さ」というものが、実のところ「臆病さ」を抜きには成り立たぬものだからである。

臆病であるということは、「現状に危機感を感じている」ということを意味する。現状に危機感を感じていない者には、現状を打破することも事態を改善することもできない。そもそもその必要を感じていないのだから。ましてや時は血で血を洗う戦国乱世。「臆病さ」に欠ける者は、簡単に滅ぼされる。鉄砲玉を怖がらず無計画に突進してゆく猛者は、真っ先に撃たれ土に還る。

だから「臆病さ」は、特に守るべき「家」を持つ者にとって最も必要な要素だった。時には大きな賭けに出ることも当然必要ではあるが、その勇気の裏には必ず最悪の事態を想定する「臆病さ」が発想の出発点にあるはずで、「策」というのは基本的にある程度の失敗を計算に入れたうえで立てられるべきものである。上杉や武田を過剰に怖れ続けた信長も、適切な「臆病さ」を持った人物であったように思われるが、最後に足りなかったのは「部下に対する臆病さ」だったのかもしれない。

どんなにネガティヴなキャラクターイメージも、その根底に共感できる要素が見つかると印象はいくらか好転する。このドラマで描かれる家康の「臆病さ」は、多くの武将が少なからず持っていたはずの要素であり、また現代においても多くの人が共感するところであるはずだ。そしてそれは、彼のポジティヴな「強さ」とネガティヴな「陰湿さ」、両方の根拠になっている。この「臆病さ」こそが、やや後ろ暗い家康のキャラクターイメージの「抜け」になっており、その「臆病さ」由来の人間味が、観る者にある種の愛嬌をも感じさせる。

この先、歳を重ねるに連れて家康の「老獪さ」が浮かびあがってくることと思うが、この「臆病さ」の上に、いったいどのような家康像が築きあげられてゆくのだろうか。敵役の成長/変化もまた、ドラマを確実に面白くしてくれるはずだ。

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